【メモ】認知モデルから、消費納品モデルへ
広告は、「広く知らせる」認知モデルであり、また、それで稼働してきたわけです。
しかし、それはうまく行かなくなってきた。
理由その1
情報過多で、広告の情報が埋没してしまう。
メディアも増え、ネットでも多数の情報が飛び交う中、広告の情報を消費者はいちいち処理していられない。もっと優先順位が高い情報が多いので。
HDDレコーダーによるCMスキップも、情報過多への対処と捉えた方が良いのだろう。
理由その2
広告が消費に影響しない
その1が量的な話とするならば、こちらは質的な話。
広告の表現は、以前と比べて劣っているわけではない。
一昔前の名作CMを見ると、案外、ちゃちい作りであったりして驚く。
今の方が、圧倒的に作り込みの密度は高い(ホンダのシティや、渡辺美里のUCCの缶コーヒーのCMは白バックであった)。
ただ、それが消費の喚起につながらない。
それはなぜかと言うのは、研究課題だなあ。
広告という枠やその枠を通して発信される情報への消費者からの信頼が壊れてしまったと言うことは考えられる。
今の新聞やテレビの掲載広告を見ていると、「良く、こんな商品・サービスの広告掲載の審査を通したなあ」と思えるものが少なくない。
NOVAとかグッドウィルのやばさは、ちょっと調べれば分かったはずなのに、さんざん広告していたものだった。
これでは、広告への信頼が下がるのはもっともだ。
もっとも、「古き良き時代」に帰れ的なことを言うつもりはない。
本質的に、もう「告知」の時代は終わったから。
「告知」というフェーズはなくならないし、要るけど、それを持って金を取ることはもう無理。
グーグルとANAが連動で、グーグルアースにビデオを連動させて、キーワードを打ち込ませるキャンペーンをやっている。
一昔前で言うと、テレビと地図帳と懸賞応募を連動させたようなものであろうか?
現代のモデルの特長は、視聴者数で課金しないこと。
打ち込んだキーワード数とか応募した会員数(応募者はANAのマイレージ会員に限定される)で課金なので、動員成果がクライアントから見て合理的。
北京オリンピックへの関心が集まらず、広告枠の販売が振るわないようだが、そのてこ入れにメディアは番組中継にタレントを動員するようだ。
視聴率はいくらか向上されるかも知れないけど、「認知」から「納品」に本質的な変化が起きていることに気がついてない民報テレビ局はこれからつらいだろうなあ。
まるっきり余談になるけど、広告収入型民放テレビというしくみには、情報の公平性という意味では評価されても良い。戦後のドラマや映画を見ていると、紙芝居をめぐる子供の葛藤が出てくる。金がないと紙芝居を見ることができないから。
その点、テレビは受信機(まあ、当時はべらぼうに高かったわけですが)さえ買えば、無料で見ることができたし、チャンネル数も地域毎には公平で、金持ちと貧乏人の間に情報格差がなかったわけで。
ただ、今の民放地上波を何とかしようとは思えないですね。
無料(正確には、広告費は巡りめぐって消費者が負担しているわけですが)であるとはいえ、番組のレベル低すぎ。
あと、放送免許の関係で、受信者の生活や関心と無関係に県単位の放送と言うのは、利用者の意向に会ってないですから。
話はまた飛ぶけど、グーグルとANAの連動キャンペーンは、ANAのマイレージ会員でなければ参加できないということはクローズドキャンペーンなんだが、それにしては賞品が豪華だなあ。
最近の景表法をチェックしてないから正確には知らないけど、一昔前なら通らなかった条件だ。
応募者の利用金額をいくらに見ているのだろう。その金額を母数にして、一定%が賞品金額の上限なのだが。
あと、普通に応募するよりも、グーグルアースを使ってキーワードを打ち込むと、当選確率が10倍になるっていうのも、一昔前の景表法から言うと、アウトのはず。
景表法に照らして、キャンペーンにケチをつけようと言うつもりはなくて(景表法はしょっちゅう変わるし、公取の解釈はもっと頻繁に変わるし)、時代の流れは完全にこっちだなと思います。
和田アキ子のCMをいくら流してもANAの客が増えるのはもちろん、好感度が上がるとは思えませんが、グーグルアース連動型なら、確実に会員の関心状況は把握できますからねえ。
そう、広告ビジネスは、消費の納品かそれに近いことを実績としなくてはならなくなってきたのです。
以前は、市場調査は、キャンペーンを打つ前に行うものでしたが、これからはキャンペーン後の調査こそが重要で、どれだけ「カイゼン」できたかが、実績であり、ビジネスとして評価されるようになるでしょう。
【以下:広告】
![]() | マーケティング・リテラシー―知的消費の技法
著者:谷村 智康 |
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